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 寺史

妙顕寺の由来
 四海唱導妙顕寺は山号を具足山、又の名を龍華といって、日蓮大聖人の孫弟子になる、日像聖人が六百六十余年の昔、創建(1321)された関西法華宗団の根本をなす由緒ある寺で、大本堂の両柱に掲げられた聯に「宗祖直授の大導師として、妙法の教を弘め、法華宗号の発祥をなし、勅願寺として四海唱導の公許を誇る、日本国中の宗門の棟梁の零場である」(文意)とある通り、創立以来法華下第一の誉れを伝え、都の法華門下派廿一本山(現在は十六)の正に草分けであり、中心的存在として今日に至っているが度々の法難をうけ、殊に天文の法乱では破壊的な打撃を受け、信長秀吉等の弾圧もあり、寺地も変ること四度と伝えられます。
 明治に入って法華各宗派が大合同し、身延山を祖山と仰いで日蓮宗が結成されてからは、その大本山として全国に三百余の末寺を統率していたが、昭和十六年の制度改革によって、全ての末寺を教団に解放し、今は名称のみを伝えているのが現状であります。
日像聖人の絵図
(重要文化財)

開山日像聖人の御出自
 御開山の日像聖人は、身延の碩学日潮上人が「その徳は宗祖直弟子の六老僧と等しいかも知れないが、功績は遥かに優れている」(文意)と讃えられているように、宗門史上並ぶ者のない偉聖であります。
 その御出生は甲斐源氏の名門平賀忠治卿を父に、上総野手の豪族印東祐照の娘(六老第一日昭聖人の妹)を母上として、下総平賀の郷(今の松戸市本山本土寺の地)に、文永六年八月十日(1269)生誕されて万壽麿と名付けられました。六才(満で)の時、兄に当る日朗聖人の手引きで身延山に登ったが、宗祖は一目御覧じて、この児こそ後日都に法華経を弘め、天子にもお題目を伝えられる器であると喜ばれ、親しく経一丸と名づけられて、有名な護衛の御本尊、玄旨伝法本尊をしたためられて授けられました。
 身延の澤に五ヶ年の春秋、身延に宗祖の教育を受けられ、御入滅の池上では、並みいるあまたのお弟子や信者方の中よりお枕辺に呼ばれ最后の御遺命として、改めて都へのお題目の弘通と、天子に妙法をお勧めせよとの大役を托されたのが、年わずか十三の弘安五年の秋でありました。
 直ちに名を日像と改められて、日朗聖人を師として、暇を断ち眠りをつめて行学にはげまれること十二年、来る宗祖の十三回忌の年を京都開教と決し、種々の難に耐えぬくための修練として、由比ヶ浜の氷浪をあびての百日の寒行を続け、又信念統一のためには、凡眼では読めない程の細字で法華経を書写し終わって、師であり兄である日朗聖人や、御母平賀の妙朗尼等と永の別れを告げられ、大聖人の御生涯の足跡をことごとく巡拝されて、都に入られました。

京都開教
 永仁二年(1294)四月二十八日、宗祖の立教開宗のその聖日、その晩、御所の正門に立たれ、登る旭の光の中に高らかにお題目を唱えられて、都の開教を誓われましたのが、年未だ二十五才の晩春であります。
 風大ならば波また高く、音強ければ響大なりのたとえの通り「正法を忘れ邪法に迷えば、国も危うく民は苦しむ。速やかに妙法に帰一して安楽地を築けよ」との辻説法の大獅子吼に、たちまち上下の帰信が集まったが、他宗派の攻撃も又盛んとなって、勅命で三度も都を追放されると言う法難を始め、日々忍難の二十八年の後、遂にその正法の真義が天皇にも伝わって、元亨元年十二月(1321)第三次の勅勘が直ちにゆるされて、後醍醐天皇より洛内に寺地を賜って、妙顕寺が創立されたのであります。
 続いて建武元年四月十四日には、「妙顕寺を勅願寺となす。殊に一乗圓頓の宗旨を弘め、四海泰平の精祈をこらすべし」との御綸旨を戴き、帝都に妙法を弘める大法城が打建てられ、四海に流布する大道が開かれて、宗祖の御遺命を見事に達成されました。たちまちに妙法の光は都の内外を明るくし、お題目の風は北陸、畿南、西国等に吹き渡りました。
 興国三年(1342)宗祖の御入滅と同じ壬午の年を迎えられた春、日像聖人は、故郷の東国へ身延、鎌倉、池上、平賀と報恩展墓の旅を果されて秋十一月、一期の大事を大覚上人に托し終られて、宗祖の御命日と同じ十三日、御年七十四才を以て安祥として入滅されました。お荼毘所と並びに御廟所は深草の宝塔寺であります。
 やがて法華教団は都の人口の半ばを制し、町衆という文化、経済の中心勢力を掌握した室町期の最盛期を迎えるのでありますが、日像聖人のこの徳化が大木であり、加うるにお弟子の大覚大僧正の功も忘れることはできません。



後醍醐天皇よりいただいた勅願寺としての証
(重要文化財)


大覚上人
 大覚上人は、関白近衛経忠卿の子とも、又一説には御醍醐天皇の皇子ともいわれる方で十七才の時、日像聖人の説法に強い感銘を受けて、大覚門跡の地位をすてて門下となられ、師に代って遠く畿南、中国、関東と遊化されて教線を拡張されlました。
 殊に、延文三年(1358)の大千魃に後光厳帝より祈雨を命ぜられて、一門を引きつれて桂川の辺りで祈られますと、慈雨が沛然と降り始め数日つづいて田畑がすっかり潤い、万民は大いに歓喜し、朝廷では特にその功を嘉賞なされて宗祖に大菩薩号を、日朗、日像聖人に菩薩号を大覚上人には大僧正を賜ったのであって、まことに有名な御事蹟であります。
 天正十一年(1583)秀吉により二条西洞院にあった妙顕寺城と言われた広大な旧地から現在地に移されたので、天明八年(二百年前)の大火にも類焼し、今の建物はその後再建されたものであります。

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